「えらいもんやなぁ」。物事に感心したときに関西人が言う言葉です。たとえば、「えらいもんやなぁ、9月に入るとさすがに朝夕は涼しなるなぁ」なんて。
三連休を美し松で孫たちと過ごし、月曜の午前中に帰途についたのですが、その際孫たちを送り出し、最後のあと片付けをしてゴミ捨てに行きました。すると誰かがテニスコートを使っています。妻と「ひょっとして孫たちだったりして」などと言っていたところまさにその通りでした。娘夫婦はどちらもテニス経験者で(娘はかじっただけのようですが)その長女は今年からテニススクールに行っています。そんな家族が「帰る前に少しだけ・・・」と孫にせがまれてやっていたようです。
去年も孫が父親にボールを打ってもらって練習しているのを見たのですが、空振りやホームランばかりで、ほとんどまともに打ち返せませんでした。あんな状態でさぞかし「おもしろくないだろうなぁ」「孫は二度とテニスをしないだろう」と思っていたのですが、何を思ったのかその後テニスを習いに行くと聴いてびっくりしました。
それ以来初めて見た孫のテニスでしたが、いいところにボールを打ってもらっていることもあるのですが、結構相手コートにボールが返っていました。そこで「えらいもんやなぁ、あんなに下手やったのが半年ほどスクールに通うと上達するんやなぁ」となるわけです。
このことで思いました。大人ならまず全員があきらめてしまうほどうまくいかないことを、子供は何回も何回も失敗しながら粘り強く続けていく能力を持っているんだ、と。
人間は生まれながらには何もできません。すべて生まれたあとに身につける能力です。そして、それらの能力を身につけないと生きてゆけないのです。だから、神様は幼い人間には粘り強く努力を続ける特性を与えたのでしょう。実にうまくできています。
ただ、そのスイッチが何に入るか、親にはコントロールできないのです。ほとんどの親は勉強に対して努力のスイッチが入れば良いと考えているでしょうが、大概はそうなりません。人間にはうまくできていないこともたくさんあるのです。